高木学園女子高等学校

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教育理念・沿革

社会で信頼され、役に立つ女性へ

「これからは、女性も学問を学んで社会に貢献する時代だ」
– 慶應義塾の福澤諭吉先生の講演を直接聞いて
感銘を受けた髙木君(たかぎ きみ)先生は、
女性が学問を身に付けられる場として、高木学園を創立しました。
それから1世紀以上、本学園は
「社会で信頼され、役に立つ女性」を輩出し続けています。

創立者・髙木 君先生の物語と教育理念

髙木 君(たかぎ きみ)先生

1881年(明治14年)、13人兄弟の長女として横浜に生まれる。
15歳の時に聴いた福澤先生の講演に感銘を受け、東京裁縫女学校へ進学。卒業後の1904年(明治37年)から裁縫を教えはじめ、以後、女子教育に邁進。
1960年(昭和35年)、80年の生涯に幕を閉じる。

1

女性の私でも大学で学びたい!
それは君先生15歳の時。横浜の開港記念会館で開催された慶應義塾の創立者・福澤諭吉先生の講演を聴きに行きました。福澤先生のお話に感銘を受けた君先生は、女性も学問を学んで、社会に貢献するべきだと強く感じます。そして、女性に学問は不要という時代に自ら大学進学を目指します。

2

私を死んだものと思って忘れて!
私は学びたい

君先生の両親は女の子の大学進学に大反対。13人兄弟の長女である君先生には、大学に進学するより家の事を手伝って欲しい、女性には学問は不要だと諭します。しかし、君先生の決意は固く、両親はこの言葉に彼女の進学を認めざるを得ませんでした。

3

勉強に励むことこそ、私の生きる道
両親をなんとか説得し、君先生は意気揚々と大学に通うことになりました。しかし、学費などを自ら工面していた君先生は、何よりも勉学に集中することを優先しました。周囲の女学生が美しく着飾ったり、楽しく毎日を過ごす姿に触れても、彼女はひたすら勉学の道に励むのでした。

4

自分の力でやってみたい!
大学を卒業した君先生のもとには、いくつもの学校から先生にならないかというお誘いが届きました。しかし、君先生は自分の力でゼロから学校を始めてみたいと思い、それらのお誘いを断ります。横浜の親戚の家の2階で、小さな寺子屋(裁縫塾)を始めました。

5

人はみな裸で生まれてきたのだから、
生まれ変わった気持ちでまた始めれば良い

君先生の塾はどんどん発展しました。しかし、関東大震災で学校の校舎が倒壊し、さらに第二次世界大戦では校舎が全焼してしまいました。それでも、君先生は学校を再建する前向きな意欲に燃えていました。

6

なるほど、高木の卒業生は、役に立つ、
信頼できると言われるように

戦後、高木学園は発展を続け、多くの卒業生を世の中に送り出すことになりました。君先生は創立50周年の記念式典の中で、このように生徒たちに語り、社会で活躍する女性を育て続けたいという意思を強く表しました。(まんが製作:情報科3年 M.D.さん)

高木学園の歩み(沿革)

沿革
世の中の動きと
女性の働き方

開塾当時の隣接地の
金比羅神社

大正13年頃の校舎

昭和初期の校舎と君先生

昭和22年当時の正門

昭和24年当時の校舎

生徒と語り合う優しい君先生
(昭和35年1月)

昭和41年当時の校舎

昭和41年当時の学校全体

平成5年校名変更後の正門

平成5年校名変更後の正門

1896年(明治29年)
創立者・髙木君先生、福澤諭吉先生の
講演会を聞きに行き、女性も学び、
社会に貢献することの大切さを感じる
1905年(明治38年)
髙木 君先生が裁縫を教える
私塾 として「高木女塾」を開設
1908年(明治41年)
「神奈川裁縫女学校」として
学校組織に 変更、
開設(高木学園の創立)
1928年(昭和3年)
「高等高木女学校」に組織変更
1944年(昭和19年)
「高木女子商業学校」設立
1945年(昭和20年)
横浜大空襲により全校舎焼失
1946年(昭和21年)
現在地(港北区菊名)に移転
1947年(昭和22年)
「高木高等学校」
「高木中学校」を設置
1951年(昭和26年)
「高木女子商業高等学校」に
組織変更
1960年(昭和35年)
髙木君先生、永眠
(享年80歳)
1966年(昭和41年)
全館・講堂落成式を挙行
1993年(平成5年)
「高木学園女子高等学校」に
校名変更
2006年(平成18年)
ー 2008年(平成20年)

「新校舎(普通教室棟、講堂・体育館棟)
建築・完成
2008年(平成20年)
高木学園女子高等学校
創立100周年
2013年(平成25年)
商業科に「会計コース」
「マーケティングコース」を設置
「情報処理科」を「情報科」に名称変更
1872年(明治5年)
福沢諭吉先生が
『学問のすすめ』を発表する
1874年(明治7年)
はじめての女子の高等教育機関として
「女子師範学校」が設立される。
主に教員養成のため
明治期の女性の職業
乳母や使用人、女工など、
限られた職業のみ可能
1899年(明治32年)
「高等女学校令」実施。女子教育が
活発化するが、基本理念は「良妻賢母」
という学校が多かった
明治後期~大正期の女性の職業
デパートの店員やお菓子工場の女工、
女優など、女性の職業選択が広がる。
大正期には女性の権利をうたう
女性運動も盛んに
1933年(昭和8年)
婦人弁護士制度制定。
女性が弁護士になることが
初めて認められる
昭和初期~第二次世界大戦中の女性の職業
治安維持法などにより女性運動は抑圧。
戦時中は女性も軍需工場に動員された
1945年(昭和20年)
女性が参政権を獲得、
選挙権が認められる
昭和中期の女性の職業
日本経済の発展につれ、働く女性も多くなるが、
男性とは給与面をはじめ大きく差があった。
また、結婚すれば家庭に入るのが常識とされた
1972年(昭和47年)
男女雇用機会均等法のもととなる
「勤労婦人福祉法」制定
1986年(昭和61年)
「男女雇用機会均等法」が制定される。
キャリアウーマンが流行語となる。
これ以降、女子教育のあり方も大きく変化した
1890
1900
1910
1920
1930
1940
1950
1960
1970
1980
1990
2000
2010

創立者の教えを胸に、社会に羽ばたいた卒業生

「社会の役に立とう。
まず人から信頼されよう。そうでなければ仕事はできない」

テンプスタッフ株式会社 代表取締役会長

篠原 欣子さん

1953年 高木商業高等学校卒、三菱重工業株式会社入社。 4年勤務後、スイス・イギリスに語学/秘書学を学ぶため留学。その後オーストラリアへ渡り、社長秘書を勤める。 帰国後、人材派遣会社「テンプスタッフ株式会社」を設立。米国経済雑誌フォーチュン」で「世界最強の女性経営者50人」に7年連続でランキングされる。 2007年、「探そう、仕事の、歓びを。」(あさ出版)刊行。2013年6月には日本経済新聞「私の履歴書」にその生き様が連載された。

Q:高木学園では、どんな高校生でしたか?

ごく普通の、夢多き少女だったと思います。テニスや社交ダンスに夢中になったり、放課後にお友達と映画に行ったり。英語が好きだったので、語学部に入っていました。生徒会長などもやっていましたが、特に当時から人をまとめるのが好きだったわけではなくて・・・・・・ただ将来については「何か仕事をしたい」とだけ、強く思っていました。

Q:その仕事に対する想いは、どこから来たのでしょうか?

父が早くに亡くなって、母が助産婦として働いて一家を支えてくれていました。その働きに出るときの母の姿が、とにかくキリッとしていて、子供の目にもとてもかっこよかった。働く母への憧れに加えて、「女性も自立して働くべき」という心構えは、今思えば君先生(創立者:髙木君先生)から教わったのかも知れません。

Q:君先生について、覚えていらっしゃることは。

1週間に1回、礼儀作法についての授業がありました。君先生から何度も仕事や人とのお付き合いについて「きちんとやることの大切さ」を教わりました。優しい校長先生で、私たちはみんな大好きでしたよ。一度、君先生のお家に伺ったこともありましたね・・・お家の前で恥ずかしくてうろうろしていたら、先生が見つけて招き入れてくださったり(笑)。

Q:教わったことは、お仕事の役に立っていますか?

もちろんです。教わった礼儀作法は、社会に出てからとても役に立ちました。人間関係の基本ですから、若いときに教わることができたのはとてもよかったと思います。 それに、高木学園の校訓、「信頼しうる婦人」「社会で役立つ婦人」になるということも、君先生によく言われたことです。これは私が今、いつも社員に言っていることとまったく同じ。「社会の役に立とう。まず人から信頼されよう。そうでなければ仕事はできない」……仕事の基本にしていることです。高木学園で、無意識のうちに刷り込まれていたんですよ。改めて君先生に感謝しなくちゃいけませんね(笑)。

Q:卒業してから、ご自分の会社を創るまでについて、お聞かせください。

高木学園を卒業後、三菱重工に入りました。まだ女子の就職が珍しい時代でしたが、私は働くのが当たり前だと思っていましたから。その後、私にできることを広げようと一大決心をして、ヨーロッパへ留学しました。語学と秘書学を学んで、それを仕事で活かそうと今度はオーストラリアへ渡り、社長秘書として2年間働きました。
そこで当時、海外では当たり前だった派遣制度を知ったんです。優秀な女性スタッフが、自分で働きたい条件を選び、生き生きと活躍している。これは日本にも必要になってくるんじゃないかな……?と考え、日本に戻ってきて、本当に軽い気持で、ひとりで会社を創ったのがはじまりです。

Q:会社をはじめて、ご苦労されたことはありますか?

はじめて5年は、苦労の連続でした。たった8坪のオフィスを借りて、自分でチラシを作って、配って歩いて。派遣スタッフのお給料を払うために、あちこち走り回ったり。もう辞めたい!と泣いてしまうことも多かったですが、少しでも感謝されると、嬉しくてつい続けてしまって(笑)ここまで来たという感じです。
人の役に立って、誰かに喜んでもらえる。これが私にとって仕事の一番素晴らしいこと。好きだから、続けてしまう。その連続でしたね。

Q:仕事で、高校時代の夢をかなえた、といえるでしょうか?

うーん……高校時代はね、自分が何になりたいか、何をやりたいかなんてわかりませんでした。もちろん社長になろうなんてこれっぽっちも思わなかったし。何か私にできる仕事はないか、と手探りで進んできただけ。ただ、母のようにずっと仕事を続けるという目標は、かなったことになりますね。

Q:では、いま自分の夢がわからない生徒に対して、アドバイスをいただけますか。

私も中学生や高校生のときは、先のことも自分のこともわからずに、色々悩みました。悩んで当たり前なんです。今、自分に合うことが見つからなくても、焦ることはないと思いますよ。自分の好きなことや得意なことって、仕事を一生懸命やってみてはじめて気づくことじゃないかしら。
今みなさんに大事なのは、何でもいいから何かを一生懸命やるという経験じゃないでしょうか。それは自信になりますし、将来「好き」なことを見つける力になりますから。

Q:高木に入学しようと思っている中学生、また在校生にメッセージをお願いします。

本当に、高校時代の勉強って大切だと思います。今でも、学生のときにもっと勉強しておけばよかった…と思うことがありますから。数学も国語も、今は使わないと思うでしょうけど、ムダなこと、損になることは何ひとつない。芸術家になろうと、主婦になろうと、会社を創ろうと、どんな人生でも基本となって助けてくれます。目の前の勉強は、まずしっかりとね。
それに高木学園で学べる礼儀作法は、社会人になるための大切な一歩。しっかり身につけておくといいですよ。
私は高校時代がとても楽しかったから、友達とのお付き合いも大切だと思います。ケンカしたり、仲直りしたりして、毎日を楽しんでください。目の前のことを大切に、一生懸命やっていくうちに、仕事について、将来についての夢が見えてくるといいですね。